「ティーヌン」創業33年の歩み—高田馬場からタイ料理を日本に広めた先駆者の挑戦

「タイ料理を、もっと気軽に、もっと身近に感じてもらいたい」そう語るのは、タイ料理店「ティーヌン」を創業した故・涌井征男さんの意思を受け継ぎ、現在 SRBCグループを率いている木下社長。

※SRBCグループとは「株式会社スパイスロード」「ブルーセラドン株式会社」が統合した社名となります

今から33年前の1992年に西早稲田でオープンしたティーヌン1号店は、日本のタイ料理ブームを牽引する存在となりました。ティーヌンのその始まりは、意外にも西荻窪の喫茶店

1978年に西荻窪で「TEA ROOM AOK」を創業し、その後、1986年に高田馬場で「Cafe MARABAR LINE」をオープンしました。

その後1992年に味澤ペンシーさんがアルバイトとして入社。彼女がまかないとして作ったタイ料理を食べたことが、涌井さんにとって大きな転機に。それまで喫茶店を経営していた涌井さんが、タイ料理の魅力に引き込まれ、ここから本格的にタイ料理の道を歩み始めることになりました。

当時、都内のタイ料理店は高級店がほとんどで、一般の人が気軽に楽しめる場所は少なかったため、「もっと多くの人にタイ料理の美味しさを知ってもらいたい」との思いから、涌井さんは試行錯誤を重ね、ついに「トムヤムラーメン」を完成させました。

その一杯が話題を呼び、ティーヌン業態の店舗拡大やブルーセラドンのオープン、さらには新丸の内ビルでのサイアムヘリテイジのオープンなど日本国内におけるタイ料理の認知を大きく広げることに。

今回は、ティーヌン誕生の背景から、これまでの歩み、そして今後の展望について、木下社長にお話を伺ってみました。

目次

ティーヌンの前身 西荻窪の喫茶店

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SRBCグループ社長の木下さん①

ケージー:ティーヌンの前身が西荻窪の喫茶店だったと伺いましたが、それは本当なのでしょうか?

木下社長:そうなんです。創業者の涌井が最初に始めたのが、西荻窪の喫茶店でした。喫茶店というのは、単なる飲食店ではなくて、人が集まり、会話が生まれる「場」なんですよね。今でこそカフェ文化が定着していますが、当時はまだそういう考え方がそこまで浸透していなかった時代でした。

SRBCグループ 西荻窪の喫茶店
涌井さんが創業した西荻窪の喫茶店「TEA ROOM AOK」

ケージー:たしかに、今でこそカフェは人が集まる場所として一般的ですが、その時代にそういう考えを持って喫茶店を始めたのは先見の明があったということですよね。

木下社長:そうですね。涌井は「コーヒーを提供するだけじゃダメだ」と考えていたんです。ただの飲食ではなく、人が集まり、話し、くつろげる場所を作ることが大事だと。彼にとって、喫茶店とは「人が自然と集まる場所」であり、それが彼のビジネスの根幹にあったんです。これは彼が亡くなった後でも、今の会社のDNAとして受け継がれています。

ケージー:その人が集まる場所を作るという考え方が、会社の事業の根幹になっているんですね。そこから、現在の事業に至るまでの変遷も気になります。

創業者・涌井社長とタイ料理の出会い

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SRBCグループ社長の木下さん②

ケージー:創業者の涌井さんがタイ料理と出会ったきっかけは、前身である喫茶店だったのですよね?

木下社長:そうなんです。涌井が経営していた喫茶店で、働いていたタイ出身の味澤ペンシーさんがまかないとして作ってくれたタイ料理を食べたのが最初のきっかけでした

ケージー:当時は、今ほどタイ料理が一般的ではなかったのではないでしょうか?

木下社長:まったくその通りです。都内にもタイ料理店はいくつかありましたが、ほとんどが高級店で、気軽に楽しめるお店はほとんどありませんでした

ケージー:そんな中で、トムヤムラーメンが誕生したのですね?

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ティーヌン西早稲田本店のトムヤムラーメン①

木下社長:はい。涌井は「もっと手頃な価格で、気軽にタイ料理を楽しんでもらいたい」という想いを持っていたんです。その想いから、試行錯誤を重ねてトムヤムラーメンを商品化しました。

ケージー:なるほど…!トムヤムラーメンは、単なるメニューではなく、涌井さんの「タイ料理を広めたい」という強い想いが込められた一品だったのですね。

木下社長:まさにその通りです。その想いを実現するために、1992年に西早稲田でティーヌン一号店がオープンしたということになります。

ケージー:そこから1992年にティーヌンが誕生するんですね!

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左:SRBCグループ現社長木下さん 右:SRBCグループ創業者の涌井さん

木下社長:そうなんです。創業者の涌井が、徹底的に研究して「究極のレシピ」を作り上げたんです。涌井は非常に研究熱心でした。タイ料理を日本の皆さんに広める第1歩が日本人が好きなラーメンでタイ料理の味を知ってもらう事でした。しかしながら、当時はラーメンブーム(環七ラーメン戦争)でティーヌン西早稲田店の近くにも行列のできるラーメン店があったのでトムヤムラーメンをラーメン好きの人にも旨いと言わせたいという思いが強くありました。

ラーメン道を追求していました。当時の雑誌に出ているラーメン店を食べ歩きスープの取り方を真似したり、日本の製麺屋さんにトムヤムスープに合う麺を作ってもらいました。朝7時から豚骨、鶏ガラを炊いて昆布、鰹節、林檎、オレンジを加えトムヤムの辛味、酸味に旨味を加えて、チャーシューを自店で仕込む毎日でした。まるでラーメン業界に新規参入のような感じでした。

ケージー:トムヤムラーメン誕生までにそんな経緯があったんですね・・!最初は何種類くらいメニューがあったんですか?

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ティーヌン西早稲田本店のトムヤムラーメン②

木下社長:最初は本当にシンプルで、トムヤムラーメンとタイラーメンの2種類だけでした。それだけに絞ったんですよ。

ケージー:最初は2種類だけだったんですね!

木下社長:そうです。多く出せばいいってわけじゃないんですよ。むしろ、尖ったメニューの方が印象に残るし、話題になりやすい。当時は「タイ国ラーメン」って看板を掲げていて、それがすごくインパクトがあったんです。ただし、最初はお客様が来ない毎日でしたのでセンレク、センヤイ、センミーを選んでもらったりカオパット、グリーンカレーを入れたりしました。

ケージー:そうだったんですね!その看板って、今も残ってるんですか?

木下社長:そう、今でも残ってますよ。初代の看板は、涌井の奥さんがデザインに関わっていて、すごく細かいところまでこだわって作られてるんですよね。

さらに、看板や暖簾に描かれた「タイ国ラーメン ティーヌン」の文字は、涌井さんの義父、つまり奥様のお父さんによるものなんです。家族の想いが込められた手仕事だからこそ、今でも大切に残しているんですよ。

ケージー:それはすごいですね!創業当時の思いがずっと受け継がれてるんですね。

創業当社から変わらないSRBCの考え方

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左:SRBCグループ現社長木下さん 右:SRBCグループ営業部長 松本さん

ケージー:創業から現在に至るまで、会社の成長の捉え方はどう変わってきたのでしょうか?

木下社長:創業から20年間は、売上や店舗数を増やすことが成長の指標でした。自分たちがやっていることを多くの人に知ってもらいたいし、事業として拡大することが最優先だったんです。

ケージー:なるほど。その時点では、事業を拡大していくことが成長の証だったと。

木下社長:はい。でも、ある程度まで来ると、それだけでは会社は成長し続けられないと気づきました。例えば、以前は「前年比100%越え成長」を目標にしていて、売上や店舗数をとにかく増やすことが第一でした。毎日その数字を意識しながら経営をしていて、涌井も手帳に毎日売上と客数を記録していました。

ただ、出店ペースが速かったのにはもう一つ理由があって、新しい業態のアイデアを思いつくと、すぐに開店していたんです。それこそ、カオマンガイ専門店、タイスキ、イサーン料理専門、タイ南部料理、フードコート業態、デリ業態など、次々と挑戦していました。おそらく、今あるタイ料理業態を最初に手掛けたのは、うちの会社だと思います。

ケージー:毎日売上と客数を記録していたというのは、すごいですね。まさに泥臭く数字を追いかける経営だったんですね。店舗を出すスピードも早かったというのに驚きです!

木下社長:でも、それ以前の2~3年目創業から20年くらいは、本当に泥臭い時期でしたよ。毎年前年比100%越えを達成するのが当たり前で、数字に対してはかなりストイックでした。経営はまさに戦いでしたね。

創業者の涌井は、確かに売上を重視していましたが、単なる売上至上主義ではなく、決してあきらめない人でした。赤字店舗が出ても、すぐに撤退するのではなく、あらゆる方法を試しながら結果を求め続けました。タイ料理への情熱は誰よりも強く、一度始めた店舗は簡単に手放さない。その粘り強さが、会社の成長を支えていたと思います。実際、売上や客数を記録した手帳は45冊にもなり、常にデータと向き合いながら経営を続けていました。

ケージー:すごいですね……それだけ経営に対する姿勢が徹底していたんですね。

木下社長:そうなんです。当時は「いかにキャッシュを残して、次の出店につなげるか」が最優先でした。新しい店を出すためには自己資金が必要ですし、銀行からの借り入れにも慎重にならなきゃいけません。だから、売上を伸ばして資金を蓄えることが最も重要でした。

創業から20年は、まさに店舗拡大の時期でした。当時はタイ料理の競合が少なかったこともあり、好立地の物件を数多く紹介してもらい、積極的に出店を進めていました。その分、大きな投資を短期間で繰り返し、正直かなり無理をした時期でもありましたね。

現在は、単に店舗を増やすことだけが目的ではなく、利益を人材育成や出店戦略、そして仕組み作りに投資することを重視しています。これからの成長を見据え、より強固な基盤を作っていくフェーズに入っていると感じています。

ティーヌン早稲田店の深夜営業

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ティーヌン西早稲田本店の外観

ケージー:深夜営業もされていたんですか?

木下社長:そうなんです!早稲田店で深夜営業をしてました。当時、早稲田店の近くには移転前のフジテレビがあり、深夜まで働くテレビ局のスタッフが食事を求めてやってくる流れがありました。そこから口コミで広がり、フジテレビのプロデューサーなんかも足を運ぶようになったんです。

ケージー:深夜営業していると、深夜でも食べに行ける場所として自然と認知されていきますよね。

木下社長:そうなんですよ。最初は普通の社員の方がふらっと立ち寄って、「あれ、なんか面白い店があるな」って気になったみたいで。それが社内で話題になり、「おい、あそこ行った?」と口コミで広がっていったんです。深夜の食事難民だった人たちにとって、貴重な存在になれたんだと思います。

ケージー:まさに、タイミングと立地、そして深夜営業というスタイルがうまくハマったんですね。

木下社長:そうですね。高田馬場ってメディア関係の人が多いエリアで、夜遅くまで働く人も多かったんです。深夜に開いている店が少なかったこともあり、自然と注目されました。しかも、うちはタイラーメンが他とはちょっと違う。深夜営業という強みと独自の味が合わさって、「ここ、なんか面白いぞ」ってなったんでしょうね。

ティーヌンの勢いがつくきっかけとなった赤坂への進出

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SRBCグループ社長の木下さん③

ケージー:ティーヌンが勢いづく中で、赤坂店の出店がターニングポイントになったんですね?

木下社長:そうですね。実は、最初に計画していたエリアでの出店がダメになってしまったんです。臭いの問題などで計画が頓挫してしまって…。そこで、涌井は勝負に出たんです。当時、赤坂はバブルの絶頂期で、街自体が活気に溢れていました。TBSも新しいビルができて、赤坂サカスの開発が進んでいた頃。そんな中で、タイ料理をより多くの人に広めるため、新しい客層を開拓しようと赤坂への出店を決めました。

ケージー:なるほど、時代の流れを捉えての決断だったんですね。

木下社長:そうなんです。でも、オープンしてしばらくは思うように売上が伸びなくて…。最初は1階のみの営業で、カウンター8席、4人掛けテーブルが4つ。3ヶ月ほど苦戦しましたが、徐々にランチのお客様が増え、気づけば行列ができるほどになりました。また、夜になると場所柄、お酒を飲むお客様が多くなってきたので、夜用のメニューを開発。さらに、空いていた2階のスペースも借りて、昼はタイラーメンやタイ飯、夜はお酒を楽しめる業態へと進化させました。

ケージー昼と夜で業態を変えるスタイル、今ではよく見かけますが、当時は珍しかったんじゃないですか?

木下社長:そうですね。このスタイルの参考にしたのが、四谷にある『こうや』という中華屋さんでした。昼はワンタンメン、夜は中華居酒屋として繁盛していて、その業態の柔軟さを見て、うちも取り入れました。結果的に、赤坂店の成功がきっかけとなり、タイ屋台料理ティーヌンという業態が広がっていくことになりました。

チェンマイへの想いから生まれたブルーセラドン

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サイアムセラドン御茶ノ水店の外観

ケージー:そこから涌井社長がブルーセラドンを始められたきっかけはどういった経緯なんですか?

木下社長「タイ料理をもっと日本の食文化の中でしっかりとした地位にしたい」そんな想いで2006年にブルーセラドンを立ち上げました。タイ料理って、美味しくて奥深いのに、日本ではまだカジュアルな位置づけのままで、接待や商談、記念日などの特別なシーンで選ばれることが少なかったんです。

「日本人が持つ繊細な味覚や、世界に誇れるサービスのきめ細やかさを活かしたタイレストランを作りたい」そんな想いがありました。そして、このコンセプトを日本だけでなく、タイ・バンコクやニューヨークにも展開していきたいと考えてました。まずは、その第一歩として、1号店を二子玉川高島屋にオープンしました。

ケージー:そういった経緯があったんですね!

木下社長:そうですね。またサイアムセラドンについては、涌井がタイにいた時にチェンマイを訪れて、その時にチェンマイの魅力にすっかり惹かれてしまってからオープンしたような形になりますね。

タイといえばバンコクのイメージが強いですが、チェンマイはまったく異なります。落ち着いた雰囲気で、気候も良く、料理も本当に美味しいんです。行くたびに「なぜこんなに心地良いのだろう?」と感じてしまい、それからはバンコクを飛び越えてチェンマイばかり訪れるようになりました。

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サイアムセラドン御茶ノ水店のカオソーイ

ケージー:それで、日本でチェンマイ料理を広めようと考えられたのですね?

木下社長:そうなんです。当時、日本ではタイ料理自体がまだそれほど一般的ではなく、特にチェンマイ料理はほとんど知られていませんでした。しかし、実際に食べてみると日本人の口にもよく合い、「これは日本でも必ず受け入れられる」と確信しました。

ケージー:確かに、今でこそタイ料理は人気がありますが、当時は「東南アジアの料理はちょっと…」とか「タイ料理は辛いんでしょ?」というイメージを持たれる方も多かったですよね。

木下社長:そうですね。特に年配の方々の中には、「タイ料理=辛い」「東南アジアの食事=屋台料理」というような偏ったイメージを持たれている方も少なくありませんでした。しかし、本場の味を知ってもらえれば、その印象は必ず変わるはずだと思い、店を開く決意をしました。

ケージー:「ブルーセラドン」というブランド名は、どのような経緯で決められたのでしょうか?

木下社長:実は、最初は「ブルーロータス、ブルージンジャー」という名前で展開していたんです。しかし、それだとタイ全体のイメージが強すぎて、もっとチェンマイに特化したブランドにしたいと考えました。

ケージー:なるほど。それで「セラドン」を取り入れたのですね!

木下社長:そうなんです。チェンマイはセラドン焼きの産地でもあり、その美しいブルーグリーンの陶器がとても印象的でした。そこで、チェンマイの老舗セラドン焼き工房であるサイアムセラドン社に飛び込み交渉し、その魅力を象徴する名前として「ブルーセラドン」となりました

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サイアムセラドン御茶ノ水店のナムギャオ

ケージー:すごいですね!完全にゼロからの開拓だったんですね。

木下社長:そうなんです!でも、現地のオーナーと話すうちに、「日本でチェンマイ料理を広めたいなら協力するよ!」と言ってくださって。業務提携契約を結び、社名を使わせていただく許可を頂きました。それがブルーセラドンの第一歩になりました。

新丸の内ビルへの出展!サイアムヘリテイジの誕生!

ケージー:「サイアムヘリテイジ」誕生までにはどのような経緯があったのかもお聞きしたいです!

木下社長:もともと、2000年代初頭から「タイ料理を東京のど真ん中でやりたい」という夢があったんですよ。最初は六本木や赤坂などの出店を考えましたが、どうしても丸の内に店を出したくて。その当時、丸の内のシンボルとも言える「丸ビル」に出店することを目指していました。

ケージー:丸ビルは丸の内のシンボルですもんね!

木下社長:はい。でも、最終的にコンペで敗れてしまったんです。相当な準備をして臨んだのですが、別のブランドに決まってしまって。あのときの悔しさは、今でも忘れられませんね。

ケージー:確かに、飲食店様にとって丸の内エリアへの出店は大きなチャンスですもんね!

木下社長:その後、丸ビルでの出店は叶いませんでしたが、ちょうど「新丸ビル」の計画が進んでいることを知り、再びチャレンジすることにしました。三菱地所の方々ともつながりができていたので、「新丸ビルこそは絶対に入りたい」と強く思っていました。

ケージー:ちなみに「サイアムヘリテイジ」が生まれた経緯についてもお聞きしたいです!

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サイアムヘリテイジの内観

木下社長:そうですね。丸ビルでの出店が叶わなかった後、タイ出張時によく利用していた「モンティアンホテル」に滞在していたところ、パッポン通り近くにある「サイアムヘリテイジ」という、バンコクの古き良き雰囲気を持つホテルに出会いました。実は、このホテルのオーナーが木下の妻の親戚だったこともあり、日本でタイ料理を広めたいという熱意を伝えたところ、業務提携を結ぶことに。こうして、バンコクの文化や味を日本に届けるための大きな一歩を踏み出すことができました。

ケージー:なるほど。それが「サイアムヘリテイジ」という名前につながったわけですね?

木下社長:はい。実際にそのホテルの名前をヒントにして、「タイの伝統(ヘリテイジ)」を感じられるレストランにしたいという思いを込めました。

ケージー:そして、新丸ビルへの出店が実現したのですね?

木下社長:はい。丸ビルでは敗れましたが、新丸ビルでは無事に出店が決まりました。それが、サイアムヘリテイジの大きな転機になりましたね。

もともと「バンコクに本当にあるようなホテルのクオリティを持ったタイ料理店」を作るというコンセプトで、内装や料理のクオリティに徹底的にこだわりました。それをプレゼンし、「この店が東京に必要だ」と訴えたんです。

ケージー:涌井社長の情熱や行動力は本当にすごいですね!まさに「やろうと決めたら、すぐに行動する」という感じなんですね。

木下社長:そうなんです。涌井は、もう「やる」と決めたら、そこに向かって一直線でした。卵が先か鶏が先かなんて考えずに、「必要なものは後から探せばいい」と言って、どんどん行動していました。

ケージー:具体的にはどんなことをされていたんですか?

木下社長:例えば、レシピに関しても「本場の味を再現する」と決めたら、現地の一流シェフを探しに行って、頼み込んで教えてもらったり。ホテルのサービスを学びたいと思ったら、現地のホテル関係者に直談判したり。普通のサラリーマンだったら絶対にしないようなリスクを取っていました。

ケージー:その行動力がなければ、サイアムヘイテイジは生まれていなかったかもしれませんね。

木下社長:そうですね。実際、周囲の役員やスタッフからすれば「また涌井が何か始めたぞ」と振り回されているように感じたこともあったと思います(笑)。でも、その情熱があったからこそ、「東京のど真ん中に本物のタイ料理店を作る」という目標を達成できたんだと思います。

その後2016年12月に、涌井征男会長が就任し、僕が社長に就任しました。しかし、そのわずか1ヶ月後の2017年1月に、涌井会長は永眠されました。

SRBCの今後の展望と実現したいこと

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SRBCグループ社長の木下さん④

ケージー:木下社長とお話をしていると、飲食業では「質を求めるな、量を求めろ」っていう考え方をとても大事にされている感じがしてて、その考えはやはり大事にされてのでしょうか?

木下社長:そうなんです。でも、これを意識し始めると、自然とこだわりも生まれるんです。だからまずは量をやって、そこから質がついてくるという考え方を大事にしてます。

ある程度の量をこなさないと、本当に良いものは生まれないと思っています。これまでのノウハウや経験に縛られず、目的さえ見失わなければ、まずやってみることが大事。最初から完璧を求めて、始めるまで時間をかけるよりも、まず一歩踏み出してチャレンジし、そこから改良を重ねていく方が早いんですよ。

ケージー:熱量がすごいですね!やっぱり、そういう姿勢が周りの人たちにも伝わっていきますよね?

木下社長:そうなんです。こっちが本気でやっていると、周りのスタッフも「社長、言ってることカッコいいじゃん!」って感じて、どんどん熱が伝わっていくんですよね。そうなると、自然と求心力が生まれて、「俺もやろう」っていう気持ちになってくれる。

結局、その原動力って責任感や使命感から生まれるんですよね。飲食業って、その部分が本当にわかりやすいんです。お客さんが美味しいと言ってくれる。その一言が、自分の仕事に対する責任と使命感をさらに強くしてくれるんです。

ケージー:確かに、飲食業ってお客さんの反応がダイレクトに返ってきますもんね。

木下社長:そうなんですよ。僕も最初は、アルバイトみたいな感覚でこの仕事を始めたんです。でも、ある時ふと気づいたんですよね。「お客さんが美味しいって言って、また来てくれる」。それが、自分の中で責任感に変わっていったんです。

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トムヤムラーメンの味をチェックする木下社長⑤

「前と同じ味を出さなきゃいけない」「満足してもらえる料理を提供しなきゃいけない」って、自然と考えるようになった。それが使命感に変わっていって、気づけば飲食業をずっと続けていました。

ケージー:その「お客さんの喜びがモチベーションになる」っていうのが、飲食業の醍醐味ですよね。

木下社長:まさにそうですね。さらに、やっていくうちに、人の輪もどんどん広がっていきました。実は、僕は地方のいろんなイベントにも出店していたんですが、その経験がすごく良かったんです。

イベントを通じて、自分の料理を初めて食べる人に提供することで、また新しい反応が見られる。そういう経験を重ねることで、より「飲食業の奥深さ」にハマっていったんですよね。

ケージー:なるほど。その積み重ねが、今の木下社長を作り上げたんですね。

木下社長:そうですね。結局、「目の前のお客さんに満足してもらうこと」。それが、飲食業の基本であり、究極の使命なんだと思います。

ケージー:今後のSRBC様はどのような形で店舗を運営していく感じなんですか?

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ティーヌン赤坂店でいただいた絶品タイ料理等

木下社長:最初の頃は、会社の成長というのは売上や店舗数の拡大でした。でも、32年経った今、成長の意味が変わってきているかなと思ってます。もちろん売上や利益は必要ですが、本当に大切なのは「人」であると考えてます。

ケージー:人材育成が会社で一番大事であるということですね?

木下社長:はい。タイ料理を通じて社会貢献をすることや、働く人が「自分の仕事にやりがいを感じられる環境を作ること」が重要です。そこにしっかりとした評価制度を設け、やる気のある人が正当に報われる仕組みを作る。それが、今まさに進めている基礎作りです。

ケージー:人が全ての中心ですもんね。今後新店舗の展開や、新しいスタイルの経営を考えているのでしょうか?

木下社長:そうですね。僕は今、経営スタイルを「トップダウン型」から「個々のリーダーが主体となる経営」にシフトしていくことを考えています。つまり、熱意を持っている人が自分のビジョンを実現できるような環境を作るんです。

ケージー:それは、例えばサイバーエージェントのような「子会社を作って社長を任せる」みたいなイメージでしょうか?

木下社長:まさにそれです。タイ料理の業界ではまだこういうスタイルが確立されていませんが、それをやることで、新しいリーダーを育て、会社全体をさらに成長させることができると考えています。

涌井は本当に魅力的な人間で、アイデアマンでした。彼のような発想力や行動力を持った人が、会社に新しい風を吹き込んでくれていました。でも、彼がいなくなった今、僕自身には同じようなアイデアマンとしての資質はないかもしれません。それでも、「何でもチャレンジしよう」という会社の体質だけは、絶対に守っていきたい。

そのためには、みんなが「社会に貢献できる」「面白い」と思える事業をどんどんつくっていくことが大切です。社員一人ひとりが意見を出して、「自分の店を持ちたい」「自分のやりたい形はこれだ」と思えるような環境をつくることが、僕の役目だと思っています。

ケージー:会社の未来を作っていくのは人という考えについて、僕も非常に共感いたしました・・!今日は本当に貴重なお話をありがとうございました!

木下社長:こちらこそ、ありがとうございました!

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