ベトナム料理教室「an com(アンコム)」を主宰する伊藤忍さんは、料理家・執筆家として約20年にわたって“ベトナムの家庭の味”を日本に伝えてきました。
そのきっかけは、20代で訪れたホーチミンで出会った“やさしいご飯”と“あたたかな家庭料理”。「ただ住んでみたかっただけ」と語るベトナム滞在は、やがてカフェの立ち上げや料理教室運営、出版などの道へと自然につながっていきます。
今回のエスニック総研では、そんな伊藤さんが歩んできた20年の軌跡と、彼女の料理教室がなぜ多くの人にとっての“居場所”になっているのかを紐解きます。
“ベトナム料理との出会い”—熱にうなされながら見つけた運命の味

ケージー: 今日はよろしくお願いします!さっそくですが、伊藤さんとベトナム料理との最初の出会いについて教えてください。
伊藤さん: はい、よろしくお願いします。最初の出会いは20代の頃でした。初めは料理教室のアシスタントをしていたのですが、その後フードコーディネーターとして働くようになって、レシピ冊子や広告料理の撮影など、寝る間もないような毎日でした。
ケージー: まさに激務ですね……!
伊藤さん: そうですね(笑)ただその分、いろんなジャンルの料理に触れる機会があって。その中である日、ベトナムを旅した人から一冊の本を紹介されたんです。現地で撮られたベトナム料理の写真がすごく魅力的で、「ここに行きたい!」と思ってしまって。それがきっかけでアジアを旅するようになりました。

ケージー: 実際に最初にベトナムに行ったとき、どんな印象でしたか?
伊藤さん: 実はその時、インフルエンザにかかっていて、現地で高熱を出してしまったんです。体調は最悪だったんですけど、不思議とベトナム料理はすっと身体に入ってくるというか。喉が痛くて水も飲みづらいのに、フォーや家庭料理は本当に優しくて食べられたんです。
ケージー: 体がベトナム料理を本能的に受け入れた背景があるんですね。。
伊藤さん: まさにおっしゃる通りです。しかもたまたま現地の人のお宅にお邪魔して、家庭料理をご馳走になったんですよ。その瞬間、「この味の秘密を知りたい」「また来たい」って思いました。
ケージー: そのベトナム旅が運命を変えたんですね!
伊藤さん: はい。帰国してからはすっかり“ベトナム料理のとりこ”になってしまって。もう、あの時の感覚がずっと忘れられないんです。
憧れた「本場の食卓」—ベトナム語を学び、現地へ飛び込むまで

ケージー: 帰国後すぐに現地での学びに向けて動き出したんですか?
伊藤さん: そうですね。ただいきなり住むのはハードルが高かったので、まずは日本でベトナム語の勉強を始めました。当時はベトナム料理を学ぶために、現地の職業訓練校に通うプログラムを提供している旅行会社があったんです。私はその1週間コースに申し込んで、再びホーチミンへ行きました。
ケージー: 料理を学ぶ前に、まず言葉から!地道な準備をされたんですね。
伊藤さん: 材料の名前や調味料の特徴など、ベトナム語でわからないと質問すらできないんですよ。実際、初回の研修では通訳の方が料理専門じゃなかったので、細かいことが伝わらなくて。そこですごくもどかしさを感じました。
ケージー: “もっと深く知りたい”という思いが強まった瞬間ですね。
伊藤さん: そうですね。それで「ちゃんと自分で話せるようにならなきゃ」と思い、勉強に本腰を入れるようになりました。最終的には一度会社を辞めて、ホーチミンに住む決意をしました。

ケージー: 現地での暮らしはいかがでしたか?
伊藤さん: 最初の半年は語学学校に通って、放課後は家庭教師をつけてずっとベトナム語漬けの毎日でした。1年間住むつもりで貯めた資金も、語学習得のために半年で使い切ってしまいました(笑)
ケージー: それでも勉強をやめなかったんですね!
伊藤さん: はい。勉強を終えた頃に、偶然知り合った日本人のデザイナーの方がカフェを立ち上げるということで、お声がけいただいて。そこでカフェのマネジメントや料理教室の企画・運営を任されることになったんです。
ケージー: ベトナムでの生活が、“学ぶ”から“働く”に変わったわけですね。
伊藤さん: そうなんです。そこからは本当に自然な流れで、現地の料理人や家庭の味にどんどん引き込まれていきました。
“ただ住みたかっただけ”—想定外につながった教室とカフェ運営

ケージー: ベトナムに住む決意をされた当初は、将来的なビジョンなどあったんでしょうか?
伊藤さん: いえ、正直なところ「料理を学びたい」「ベトナム語を身につけたい」という気持ちだけでした。何か仕事につなげようとか、教室を開こうなんて全く考えていなかったんです。ただ、“住んでみたい”という気持ちに従っただけなんですよね。
ケージー: それが、どのようにしてお仕事に変わっていったんですか?
伊藤さん: 語学学校と家庭教師で貯金を使い切ってしまいまして(笑)それで現地でアルバイトを始めたんです。ちょうど立ち上がったばかりの日本人向けフリーペーパーの編集部で、営業や集金など、全く畑違いの仕事をしていました!
ケージー: 編集部でのお仕事が、教室やカフェとどうつながっていくのでしょうか?
伊藤さん: ある日、そのフリーペーパーに広告を出しに来た日本人デザイナーの方が、「ホーチミンでカフェを開くので、オープニングスタッフを探している」と話されていて。編集部のスタッフが「隣にいますよ」と私を紹介してくれたんです。そこからトントン拍子で話が進みました。
ケージー: すごい偶然ですね!

伊藤さん: 本当にそうなんです(笑)そのカフェは、ホーチミンではまだ珍しかった“隠れ家カフェ”の先駆けでした。私はマネジメントとメニュー開発を担当していたのですが、キッチンスペースを使ってベトナム料理教室も開くことになって。ベトナム人の先生を採用し、私はその通訳として関わっていました。
ケージー: 現地での教室、どんな反応でしたか?
伊藤さん: お客様は旅行者や在住者が多かったのですが、「現地の食材を使ってこんな料理が作れるんだ」と喜んでもらえて。それが嬉しくて、どんどん伝えることの楽しさに目覚めていきました。
ケージー: もともと“学ぶ”ことから始まったベトナム生活が、“伝える”側に回ることになったんですね。
伊藤さん: そうですね。「ただ住みたかった」気持ちに従った先に、自然と道がつながっていったという感じです。
カメラマンとの縁が導いた“食の縦断旅”と出版の道

ケージー: ベトナムでの教室とカフェ運営の後、出版にもつながっていったと伺いました。
伊藤さん: そうなんです。帰国を決意する少し前に「最後にベトナムをじっくり旅しよう」と思い立って、ホーチミンからハノイまで“食の縦断旅”をしたんです。その旅には、とあるカメラマンの方が同行してくれました。この方こそ実は、私がベトナムに行くきっかけになった本の著者でもあります。もともとは一読者だったのですが、後に共通の知り合いを通じて知り合うことができました。
ケージー: なんだか運命的ですね。それはどんな旅だったんでしょう?
伊藤さん: 毎日が発見の連続でした。行く先々で「この料理を見たい」と伝えると、「うちで作ってるよ」と現地の方が声をかけてくれることもあって。予想外の出会いと料理の連続で、まるでレールが敷かれているかのように旅が進んでいきました。
ケージー: まさに“引き寄せられた旅”ですね。
伊藤さん: そうなんです。で、そのカメラマンさんが「これは本にするべきだ」と出版社に持ち込んでくれて。私が初めてベトナムに興味を持つきっかけになった本の著者でありカメラマンでもある方と、同じ出版社から一緒に本を出版することになったんです!
ケージー: すごい巡り合わせですね……!
伊藤さん: 本当にそう思います。しかもその後も、そのカメラマンの方とは何冊も本を作りました。出版の世界については全く無知だった私が、こうして本を出す機会をいただけたのは、やっぱり縁と流れの中にあったのかなと。
ケージー: まさに「食を通じて人生が動いた」旅だったんですね。
伊藤さん: そうですね。あの旅がなければ、今の私はいなかったと思います。
「an com」という名前に込めた、白いご飯への敬意

ケージー: 教室の名前「アンコム」には、どんな意味があるのでしょうか?
伊藤さん: 「アンコム(Ăn cơm)」は、ベトナム語で「ご飯を食べる」という意味です。文字通り“白いご飯を食べる”という動作を指すのですが、実はそれが“食事をする”という意味でも使われるんです。
ケージー: それは、日常のなかに根付いた言葉なんですね。
伊藤さん: そうなんです。ベトナムでは、白いご飯とおかずの組み合わせが生活の中心。フォーやバインミーといった有名な料理もありますが、家庭では朝以外は圧倒的に“白ごはん”が基本なんです。私はその暮らしの中にある“白いご飯”こそが、ベトナム料理の本質だと感じていて。
ケージー: フォーや春巻きよりも、もっと深い“ベトナムの味”があるというメッセージ性が込められているんですね。

伊藤さん: ええ。実際、私が一番感動したのは、家庭で出された白ごはんと茄子のおかずでした。あの一皿が、体調の悪いときでもスッと体に入ってきて、「これは私の料理だ」と心から感じられたんです。
ケージー: 教室の名前に、その体験が反映されているんですね。
伊藤さん: そうですね。初期は別の名前だったんですが、ベトナムの方から「“安南”は中国による支配の象徴であり、使わない方がいい」と指摘されて。それで原点に立ち返って、私が本当に伝えたい“白いご飯”のある暮らしを名前に込めました。
ケージー: 単なる料理教室ではなく、“ベトナムの食文化の根”を伝える場所なんですね。
伊藤さん: はい。ここで教えているのは、レストラン料理というより“おうちのごはん”。それが一番、ベトナムという国と人を感じられるんじゃないかと思っています。
“ご飯のおかず”が教えてくれる—継続と共生のベトナム料理教室

ケージー: 教室を始めて20年。いま、どんな思いで続けていらっしゃいますか?
伊藤さん: 最近は「継続すること」の意味をすごく感じますね。開講当初から通ってくださっている生徒もいますし、何年か離れていた方が「また来ました」と戻ってきてくれることも多いんです。
ケージー: 20年間、ライフスタイルと一緒にベトナム料理が“共にある”関係なんですね。
伊藤さん: そうですね。長く続けていると、生徒の人生にも関わることになります。「仕事が落ち着いたからまた通いたい」とか、「子育てが終わって時間ができた」とか、そういう中で“ベトナム料理がある暮らし”を支えられている気がしています。
ケージー: そう考えると、「料理教室」というよりも、ひとつの“居場所”にも感じますね!
伊藤さん: はい、まさに部活みたいな感覚ですね(笑)年に何度か、生徒を連れてベトナムに食のツアーにも行くんですが、「ここで買った調理道具を日本でまた使ってくれてる」と思うと、それだけで嬉しくなります。
ケージー: ベトナム料理が、生活に根づいていくんですね。
伊藤さん: はい。そして、今後は逆に、ベトナムに住む日本人や、現地のベトナム人に向けて、日本の調味料やレシピをどう取り入れるかということも伝えていきたいなと。これまでやってきた“ベトナム料理を日本に広める”という活動の逆のようなことですね。
ケージー: 双方向の“共生”ですね。
伊藤さん: ええ。料理を通じて人と文化がつながることは、想像以上に大きな力になる。これからも、白いご飯とおかずのように、シンプルだけど深いつながりを大事にしていきたいです。
ケージー:これからも忍さんの活動応援しております!改めて忍さん本日はお忙しい中インタビューさせていただきまして、ありがとうございました!